アメリカの資料を探してたらリコールの検索が
あったのでVespaで検索してみました。
1978-05-13 RECALL ID#76296
1975 各モデル
スロットルワイヤーの破損によりスロットルの戻り
が不調になる。ディーラーで取り回しとワイヤーの
状態を確認。
1981-10-20 RECALL ID#13243
1978 PX125 ホイール断面の90度曲がり部分が
道路からの負荷によってヒビが入る。
このリコールはP200についても出てます。
アメリカの資料を探してたらリコールの検索が
あったのでVespaで検索してみました。
1978-05-13 RECALL ID#76296
1975 各モデル
スロットルワイヤーの破損によりスロットルの戻り
が不調になる。ディーラーで取り回しとワイヤーの
状態を確認。
1981-10-20 RECALL ID#13243
1978 PX125 ホイール断面の90度曲がり部分が
道路からの負荷によってヒビが入る。
このリコールはP200についても出てます。
終戦後8年、二人のドイツ人がフェンダーライトでトレーラーを牽いて
日本を走ってます。
H Diether EbelerさんとCountess Dagmarさん、26歳と25歳の二人。
ドイツでは2人ともジャーナリストの仕事をし、出会いはラジオ局で
の仕事だそうです。
現在にネットで見るとエベラーさんの多くの記載があります。英語で
書かれた多くの記事は1953年に北米で取材された時のモノが多い
です。
1952年の9月に彼らはドイツを出発、ヨーロッパを縦に抜けてイタリ
アからギリシャへ、トルコからインド、セイロンからインドネシア、シン
ガポール、シンドネシア、香港、マカオそして日本を経由して北米に
渡ります。
北米までの走行距離は10万km、この内の5万kmは4馬力で40km
で走行。100kgもの荷物を載せたトレーラーを牽引した彼らは120km
ごとに給油の必要がありました。1953年の7月に彼らは日本を発っ
てポートランドに到着。(以上The Times 4-10-55より訳)
NEW YORKER(12-24-53)誌の記事でエベラーさんはアジア各国の
感想を聞かれ、こんな風に答えてます。
「日本の若者は希望を持てないでいます。彼らは宗教や天皇も信じ
られない状況です。国は小さく、大きな夢も描けず、辻褄の合わない
状況にいます。」
と答えてます。終戦から8年目の日本を彼らは確かに走ってます。
画像は2枚、一枚は箱根の大鳥居、もう一枚は初夏の富士山がバ
ックにあります。(画像引用Piaggio Magazine #41)
大鳥居の画像には箱根まんじゅうの看板。その右側にあります街灯
の石積み部分は現在でも残ってます。
知りうる限り、この2枚が国内で写されたもっとも古い画像になり
ます。なにしろ1953年に輸出入法が改正されるまで輸出については
ともかく輸入は事実上の制限がされ、例えば外国為替銀行ってのは
翌年の1954年まで無かったんです。
ちなみに日本で海外旅行が自由化されるのは1964年です。それ以前
は「業務」以外で日本人は海外に行く事は出来ませんでした。この
時代に2人が日本を走ったのが、どれほどの苦労の末だか…今の私
たちに想像は出来ないと思います。
スモール50の年式と車体番号をずっと調べてるんですが、ここらで各種の資料や
現物との比較をまとめてみます。「現物」ってのは確認できる車体番号を片っ端か
ら記録してみました。これで分布を見ますと、日本に入ったのでは?と予想できる
ロットの数がおおまかで…判るかなぁーと思ってるんですけど。
1974 V5SA1T 57177 – 62228 5052
1975 V5SA1T 62229 – 66725 4497
1976 V5SA1T 66726 – 69601 2876
1977 V5SA1T 69602 – 74977 5376
1978 V5SA1T 74978 – 79679 4702
1979 V5SA1T 79680 – 89185 9506
1980 V5SA1T 89186 – 98562 9377
1981 V5SA1T 98563 – 107211 8649
1982 V5SA1T 107212- 111891 4680
1983 V5SA1T 111892- 130120 18229
1984 V5SA1T 130121- 132200 2080
1985 V5SA1T 132201- 134688 2488
1986 V5SA1T 134689- 137006 2318
1987 V5SA1T 137007- 138910 1904
1988 V5SA1T 138911- 140772 1862
1989 V5SA1T 140773- 142287 1515
1990 V5SA1T 142288- 144061 1774
1991 V5SA1T 144062- 146098 2037
1992 V5SA1T 146099- 148270 2172
1993 V5SA1T 148271-
——————————–
1998 V5SA1T -1597**
—–1977
V5SA1T704**しか見つかってません。輸入台数は数百台も前半ではと思います。
この年式ならパーツカタログに「日本向け」が登場します。ウインカーを装備
したドイツ仕様との差異はナンバー台が大きいトコです。
—–1978
発見台数が急増します。数百台後半でしょうか?
—–1979
さらに急増。しかし、特定の番号に集中します。例えば822**前後、832**-5**、
つまり幾つかのロットに分けて生産輸入されたと考えられます。これは輸入元が
複数になったのも理由と考えます。1回に200台程度としても6-7回では無いで
しょうか?。
—–1980
79-80年は輸入台数はピークとなる様子です。番号の分布を見ると多い時には
1000台以上も連続してる可能性があります。タミヤの「キャンバスフレンド」
って当時の大学生を素材にした1/24のプラモデルがありましたが、V50Sに乗
れる暮らしは憧れでした。
—–1981
一転してごく少数の確認のみです。日本のブームが終わったって事になります。
—–1982-1984
空白の3年間になります。生産の記録は残ってますし83"には空前の18,000台。
が、日本では車体が見つかってません。2018/10/11に追記、一番下参照
イタリアの生産台数も1980"の90万台から50万台に急落します。
—-1985
分布でみると400台程度が2回入ったみたいです。
—-1986-88"
この3年間分の確認台数は多くありません。また番号も極端に飛ぶので、輸入台
数規模も少なく細かいのでは無いでしょうか?。
—-1989
第二次ブームです。分布は4つに分かれます。生産台数の半分程度は日本に持ち
込まれたのでは?と予想します。たぶん、春初夏秋冬の4回生産では無いでしょ
うか?。
—-1990-1992
どうも1年ごとに当たり年?となる様子で1990年と1992年はあまり見つかってません。
一方で1991年は分布は3つになります。製造番号が発表されてるのは1992年の148270
が最後になります。
—-1992以降
現在のところで、確認できてる一番最後の車体番号は1597**です。メーターや車体に
貼られたステッカー等で年が確認できる場合があります。また90年代は年間2千台前後
の生産ですので、大雑把な予測としてはこんな風です。
1993 148271-1502**
1994 1502**-1521** 1509**を1994で確認
1995 1521**-1541** 1541**を1995で確認
1996 1541**-1560** 1547**を1996で確認
1997 1560**-1580** 1572**を1997で複数確認
1998 1580**-1598** 1596**を1998で確認
運良く確認できました生産年/車体番号の例を重ねてみると、そう大きくはズレて無いと
思います。
—–2018/10/11追記
1982-1984の車体番号、111***を複数台確認できました。
ずーっと前にYahoo 知恵袋で聞かれたカラーコードの件ですが、
エクセル上で一覧にしてみました。後はソートなり検索なりで
工夫して下さい。
http://briefcase.yahoo.co.jp/bc/besupagasuki/lst?.dir=/
color code table.xls
—–2018/10/27追記
上記リンク先のブリーフケースがサービス終了してました。
マイボックス中のお引越し先に、リンクはこちらです。
ちょっと、過去資料の整理に使ってみます。
2005年よりの書き込みは削除しました。2009/03/31