また「お友達」等は申し訳無いんですが、全てお断りさせていただいてます。
メッセージをいただいたのですが
また「お友達」等は申し訳無いんですが、全てお断りさせていただいてます。
ET3のミッション側オイル交換。正確かつイーカゲンに量を測ってみたら210ccでした。
クラッチが滑るんで、ついでにスプリングのイタズラを考え中。
参考資料?、V90用?、強化スプリングと体重計で圧縮時の全長を計測。
自由長 42mm
5k:42mm
10k:41mm
15k:38mm
20k:37mm
25k:35mm
30k:33mm
35k:31mm
40k:29.5mm
装着の状態で圧縮されて30mmですので、加重は40kg程度って事になります。
こちらのカタログは知人からお借りしたモノです。
80年代の渋谷や原宿は若者に人気の場所でした。そこで
ベスパに乗ってる人たち…、雑誌で何回も紹介される彼ら
彼女らは、多くのそれ以外の若者からはまるで御伽噺の様
に遠い存在でした。
そんな彼らがお店を作った。イタリア製のアクセサリーは
他のお店でも買えましたけど、いつでも在庫が見られる様
に雑貨屋さんスタイルで展示されてる場所はほとんどあり
ませんでした。オリジナルのジャケットにはクラブメンバ
ーで無いと買えないと注意書きがありました。
ベスパに乗ってても、そこに行くにはお金も必要ですが、
入るのはちょっと敷居の高い憧れの存在でした。お店の広
告が出てる雑誌を切り抜き、入手したお店のカタログを眺
めるだけで精一杯だった頃のまま、小さなチラシ1枚づつ
綺麗な状態で保存されてます。
お店のロゴが入った壁掛け時計を知人は持ってました。似
た時計を買って来て、自分でロゴを入れて作ったそうです。
「買えなかったから」…それくらい、このお店とその回り
のお客さんに憧れてた人がいる、そんなお店でした。
アメリカの資料を探してたらリコールの検索が
あったのでVespaで検索してみました。
1978-05-13 RECALL ID#76296
1975 各モデル
スロットルワイヤーの破損によりスロットルの戻り
が不調になる。ディーラーで取り回しとワイヤーの
状態を確認。
1981-10-20 RECALL ID#13243
1978 PX125 ホイール断面の90度曲がり部分が
道路からの負荷によってヒビが入る。
このリコールはP200についても出てます。
終戦後8年、二人のドイツ人がフェンダーライトでトレーラーを牽いて
日本を走ってます。
H Diether EbelerさんとCountess Dagmarさん、26歳と25歳の二人。
ドイツでは2人ともジャーナリストの仕事をし、出会いはラジオ局で
の仕事だそうです。
現在にネットで見るとエベラーさんの多くの記載があります。英語で
書かれた多くの記事は1953年に北米で取材された時のモノが多い
です。
1952年の9月に彼らはドイツを出発、ヨーロッパを縦に抜けてイタリ
アからギリシャへ、トルコからインド、セイロンからインドネシア、シン
ガポール、シンドネシア、香港、マカオそして日本を経由して北米に
渡ります。
北米までの走行距離は10万km、この内の5万kmは4馬力で40km
で走行。100kgもの荷物を載せたトレーラーを牽引した彼らは120km
ごとに給油の必要がありました。1953年の7月に彼らは日本を発っ
てポートランドに到着。(以上The Times 4-10-55より訳)
NEW YORKER(12-24-53)誌の記事でエベラーさんはアジア各国の
感想を聞かれ、こんな風に答えてます。
「日本の若者は希望を持てないでいます。彼らは宗教や天皇も信じ
られない状況です。国は小さく、大きな夢も描けず、辻褄の合わない
状況にいます。」
と答えてます。終戦から8年目の日本を彼らは確かに走ってます。
画像は2枚、一枚は箱根の大鳥居、もう一枚は初夏の富士山がバ
ックにあります。(画像引用Piaggio Magazine #41)
大鳥居の画像には箱根まんじゅうの看板。その右側にあります街灯
の石積み部分は現在でも残ってます。
知りうる限り、この2枚が国内で写されたもっとも古い画像になり
ます。なにしろ1953年に輸出入法が改正されるまで輸出については
ともかく輸入は事実上の制限がされ、例えば外国為替銀行ってのは
翌年の1954年まで無かったんです。
ちなみに日本で海外旅行が自由化されるのは1964年です。それ以前
は「業務」以外で日本人は海外に行く事は出来ませんでした。この
時代に2人が日本を走ったのが、どれほどの苦労の末だか…今の私
たちに想像は出来ないと思います。