メッセージをいただいたのですが

ブログでのメッセージをいただいたのですが、お返事がなぜか出来ないので、
こちらに書いてみます。
 
————————————————————————
こちらのメッセージにつきまして気づきませんでお返事が遅くなり申し訳ございません。
また「お友達」等は申し訳無いんですが、全てお断りさせていただいてます。
 
個々のお尋ねにつきましては、お手数ですがヤフー智恵袋上にてお願いします。
やり取りがネット上に残れば他の方が同様の事で検索されました時に、なんらか
の参考になるかも…しれませんので。
 
車体番号とエンジン番号の差は判りません。車体番号は2種で全く別ですので、
車体番号の車種にダレかがエンジンを載せ変えたのでは?と思います。
 
また、何かあればYahoo智恵袋上にて書いていただければ、分かる範囲なら書き
込みしてみます。ではでは、せっかくに入手されました車体ですので、元気に走ら
せて楽しまれて下さい。
————————————————————————–
トラックバックは可にしてますが、コメントこうしたブログでは延々とQ&Aが続く可
能性が高いので、不可にしてあります。
 

フェンダーライトの時計

これは2006年ごろに知人から貰いました。彼はショッピングセンターに
出展してた百均ショップの様なところで見つけたそうです。
 
外側は「フェンダーライト」のソノ部分を模して、時計の表側はコレです
から、本来はそんな安売りするモノとは思えなんですが、逆に言えば
一部の方にのみしかウケ無いデザインかもしれません。
イメージ 1

CAR STYLING 34 1981 SPRING

CAR STYLING誌が休刊だそうです。
 
1981"の春号ではジャンカルロペルーニ氏の35周年記事「Vespa and its maker Piaggio」
が和訳されました。歴代モデル、工場、会社の歴史、映画に登場する各モデルと背景、
社内、特にデザイン部門には重点が置かれ、ダスカニオ博士から歴代の代表的デザイ
ナーとその作品画、当時の現役モデルだったモペッドや3輪についても歴代モデルを含
め解説されてます。
 
日本では、これ以降の全ての「教科書」的な記事になりました。が、これほど詳しく書か
れた記事は以降にもありません。この記事はその後に通称で「青本」と呼ばれる冊子に
まとめられました。
 
この記事、最後にペルーニ氏以外の記事があります。スクーターの歴史を紹介した軽妙
な文章+スクーターの歴史を紹介する簡素な絵、須空多好彦氏。苗字が「スクーター」で
す。当時は国内メーカーで2輪デザイナーをされてましたS氏…だと思います。
 
イメージ 1
 
 
 

ミニカー?

アクリルの小さなケースに入ってるんですが、出すのが面倒なんで、
そのまま撮影してみました。下に置いてあるのは100円玉ですので
全長はだいたいで8mmぐらいです。
 
これは鉄道模型のNゲージ(9mm幅 1/148~160)用のスケールにな
ってます。92-3年頃に東急ハンズで見つけました。\300ぐらいだった
と思います。海外の知人連中にはムチャクチャにウケました。
 
赤、青、黄、黒、白、銀が確認できました。
イメージ 1
 

モトスクーターラン

80年代後半、秋の一日に秋が瀬の公園に集まって、情報交換して、
撮った写真は名前も知らないから翌年に渡す…、そんなのんびり
した集まりがスタートしました。
イメージ 1
「年に二回」となってるのはナゼか?っての後のモトスクーターランではクイズにされました。
 

Yahoo知恵袋がらみで

イメージ 1
Yahoo知恵袋でホイールの互換性って話があり、参考画像で後からアップしようとしたら、
出来ませんでした。「場所お借りしまーす」ってのに近いんですけど、自分のBlogなら文
句も言われないと思います(笑。
 
このオートマ系のドライブシャフト、ナットやロックの部分はハンドシフト系と同じです。
「変える必要の無いトコは変えない」ってだけなんでしょうけど。
 

オイルとクラッチスプリング

ET3のミッション側オイル交換。正確かつイーカゲンに量を測ってみたら210ccでした。

クラッチが滑るんで、ついでにスプリングのイタズラを考え中。

参考資料?、V90用?、強化スプリングと体重計で圧縮時の全長を計測。

自由長 42mm
5k:42mm
10k:41mm
15k:38mm
20k:37mm
25k:35mm
30k:33mm
35k:31mm
40k:29.5mm
装着の状態で圧縮されて30mmですので、加重は40kg程度って事になります。

憧れだったお店

イメージ 1

イメージ 2

こちらのカタログは知人からお借りしたモノです。

80年代の渋谷や原宿は若者に人気の場所でした。そこで
ベスパに乗ってる人たち…、雑誌で何回も紹介される彼ら
彼女らは、多くのそれ以外の若者からはまるで御伽噺の様
に遠い存在でした。

そんな彼らがお店を作った。イタリア製のアクセサリーは
他のお店でも買えましたけど、いつでも在庫が見られる様
に雑貨屋さんスタイルで展示されてる場所はほとんどあり
ませんでした。オリジナルのジャケットにはクラブメンバ
ーで無いと買えないと注意書きがありました。

ベスパに乗ってても、そこに行くにはお金も必要ですが、
入るのはちょっと敷居の高い憧れの存在でした。お店の広
告が出てる雑誌を切り抜き、入手したお店のカタログを眺
めるだけで精一杯だった頃のまま、小さなチラシ1枚づつ
綺麗な状態で保存されてます。

お店のロゴが入った壁掛け時計を知人は持ってました。似
た時計を買って来て、自分でロゴを入れて作ったそうです。
「買えなかったから」…それくらい、このお店とその回り
のお客さんに憧れてた人がいる、そんなお店でした。

北米でのリコール

アメリカの資料を探してたらリコールの検索が
あったのでVespaで検索してみました。

1978-05-13 RECALL ID#76296
1975 各モデル

スロットルワイヤーの破損によりスロットルの戻り
が不調になる。ディーラーで取り回しとワイヤーの
状態を確認。

1981-10-20 RECALL ID#13243

1978 PX125 ホイール断面の90度曲がり部分が
道路からの負荷によってヒビが入る。

このリコールはP200についても出てます。

1953年の世界1周

イメージ 1

イメージ 2

終戦後8年、二人のドイツ人がフェンダーライトでトレーラーを牽いて
日本を走ってます。

H Diether EbelerさんとCountess Dagmarさん、26歳と25歳の二人。
ドイツでは2人ともジャーナリストの仕事をし、出会いはラジオ局で
の仕事だそうです。

現在にネットで見るとエベラーさんの多くの記載があります。英語で
書かれた多くの記事は1953年に北米で取材された時のモノが多い
です。

1952年の9月に彼らはドイツを出発、ヨーロッパを縦に抜けてイタリ
アからギリシャへ、トルコからインド、セイロンからインドネシア、シン
ガポール、シンドネシア、香港、マカオそして日本を経由して北米に
渡ります。

北米までの走行距離は10万km、この内の5万kmは4馬力で40km
で走行。100kgもの荷物を載せたトレーラーを牽引した彼らは120km
ごとに給油の必要がありました。1953年の7月に彼らは日本を発っ
てポートランドに到着。(以上The Times 4-10-55より訳)

NEW YORKER(12-24-53)誌の記事でエベラーさんはアジア各国の
感想を聞かれ、こんな風に答えてます。

「日本の若者は希望を持てないでいます。彼らは宗教や天皇も信じ
られない状況です。国は小さく、大きな夢も描けず、辻褄の合わない
状況にいます。」

と答えてます。終戦から8年目の日本を彼らは確かに走ってます。

画像は2枚、一枚は箱根の大鳥居、もう一枚は初夏の富士山がバ
ックにあります。(画像引用Piaggio Magazine #41)

大鳥居の画像には箱根まんじゅうの看板。その右側にあります街灯
の石積み部分は現在でも残ってます。

知りうる限り、この2枚が国内で写されたもっとも古い画像になり
ます。なにしろ1953年に輸出入法が改正されるまで輸出については
ともかく輸入は事実上の制限がされ、例えば外国為替銀行ってのは
翌年の1954年まで無かったんです。

ちなみに日本で海外旅行が自由化されるのは1964年です。それ以前
は「業務」以外で日本人は海外に行く事は出来ませんでした。この
時代に2人が日本を走ったのが、どれほどの苦労の末だか…今の私
たちに想像は出来ないと思います。